生城山(おおぎやま)の紹介と生城山誕生伝説

ブログ / 志和の歴史

志和のまちシンボル生城山をご紹介します♪

生城山の標高は485m。
頂上から志和のまちが一望に見渡せ、約1時間程で登ることができます。
(毎年5月に登山が行われますが、コロナ禍の現在は実施できていません。)

頂上からは高鉢山(たかはちやま)・七堂が坪(しちどうがつぼ)・三掛山(みつかけやま)・安駄山(あんださん)・花茎山(はなぐきやま)・金明山(きんめいさん)・鷹の巣山(たかのすやま)・段原山(だんばらやま)などに囲まれた志和盆地を見渡すことができます。

生城山城跡(おおぎやまじょうあと)

頂上には城跡があります。
ここは志和盆地のほぼ中央に位置する生城山に築城された天野氏の本城でした。

山頂に城が築かれたのは九代興定(1520年)頃といわれています。

周辺には柱穴の掘られた巨岩が二つ残っています。

山頂の本丸から東に二の丸、三の丸見張り壇という曲輪郡があります。

 生城山誕生伝説

安芸・備後の民話より

その昔、一晩のうちに都が山になった。(抜粋)
大むかし、賀茂郡の志和から安芸郡の瀬野あたりまでは広い野原でした。
日本中探してもこんなに広く美しい土地はどこにもないということで、天子様は都を京の町からこの地へお移しなるということなりました。

天子様の家来は早速京の町と同じように一条・二条・三条・四条・五条・六条・七条・八条・九条と分けて都を造り始めました。
ところがこの地の殿様は自分のわがままもできず、自分の領地も狭くなってしまう、殿様はどうしようと思案ばかりしていました。

そこで我慢できなくなった殿様は扇を逆さにして神様に三日三晩拝み続けました。

すると三日目の晩、一夜のうちに広い野原の真ん中にぽっかりと大きな山ができました。
これでは都を造ることはできません。この計画は取り止めとなりました。殿様ほっとしました。

そしてこの山の上にお礼のお宮を造りました。
この山はちょうど扇を逆さにしたような形をしていましたのでその山を扇山と名付けました。

いつしか生城山といわれるようになったようです。
今も志和の里にはまちの真ん中にどっかりと生城山が腰を据え、六条・七条・八条という地名が残っています。

生城山伝説 亀岩

生城山頂上近くに亀岩というカメの形によく似た大きな岩があります。
むかし、むかしのことじゃった。

この地、志和は日照りによる水不足により人々は大変困り果てていました。
水不足で体を壊すものや作物ができず食糧不足にも陥ったのです。

このままでは皆が倒れ、この里が滅んでしまうと考えた人々は主がすむという沼に向かい「どうか、私たちを助けてください。どうか大切な志和の里をお助け下さい。」と一心に祈ったのです。

するとその夜、沼からゆっくりと顔を出し、目を覚ましたのは大きな亀でした。
亀の主はゆっくりゆっくりと高い生城山へ登り始めました。

やがて亀は里を一望できる高さまで来た時に歩みを止め、一つ、二つ・・・と大きな涙を落としました。
その涙は生城山に溶け込み次第に大きな水脈となったのです。

そのお蔭で乾いた地はうるおい水不足が解消されたのです。

翌日、人々は沼の主にお礼を言いに沼へ行きましたがそこには沼もなく主の姿も見えません。
ただ、主が歩いたような跡をたどっていくと、そこには亀のような大きな岩がありました。

「沼の主様は自分の身をもって皆や里を救ってくださったんだ。」こうして人々は亀岩と名付け生城山を雨ごいの場としました。

このような伝説から、生城山は志和の人々にとって願い・祈りへつながる存在だったのかもしれないなぁと思いました。