志和の歴史

奈良・平安時代の志和

奈良・平安時代、志和は安芸國賀茂郡の北西に位置し「志芳郷」と呼ばれており、朝廷の国衙領だったと考えられています。その後、鎌倉時代に入り、関東の御家人である天野氏、石井氏が地頭職となり、領地支配します。これは戦国時代末期まで続きました。

江戸時代の志和

江戸時代には、志和は広島藩の領地となり、志和組として8ヶ村に分かれていました。
明治維新の時には、志和西村・八条原に、広島藩が緊急時に備えて「隠れ城・八条原城」を築いており、今も広大な敷地に城の跡が残っています。

また、広島藩の諸隊(庶民からなる戦闘部隊)を、高屋出身の広島藩士・木原秀三郎が「神機隊」を創設しました。本陣を西蓮寺に置き、戊辰戦争へ出陣し、多くの死傷者を出しながら明治維新に向け活躍しました。

明治時代の志和

明治4年(1871)広島県となり、明治22年(1889)市制町村制施行により、志和東・内村は「東志和村」となり、志和西・冠・別府・七条椛坂・奥屋の5ヶ村は「西志和村」となり、「志和堀村」は一村で存続しました。

昭和からの志和

昭和20年の終戦ののち、昭和30年、東志和村、西志和村、志和堀村が合併して「志和町」となり、昭和49年、志和町、八本松町、西条町、高屋町が合併し、「東広島市」となり、現在へ続いています。